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100920_120103_設楽が原歴史資料館

 徳川家康の足跡をたどる旅。
 3日目は武田を破った設楽ヶ原の古戦場をめぐります。






朝散歩 家康の城 浜松城

 夕べは、ホテル近くの牛たんの売り切れた牛タン屋っていう、不思議な居酒屋で、そんな環境にあまりにもはまり込んで、飲み過ぎたため、二日酔いです。
 二日酔いなんだけれども、早起き。
 重い体を引きずって、浜松の街に出てみました。

 目的は、浜松城。
 街の繁華街を抜けて、ここから官公街の始まり、市役所の並びに浜松城はありました。


 武田の侵攻に備えるため、本拠地を三河岡崎から遠江曳馬に移した徳川家康。
 その際、曳馬を、浜松に改名したのが街の始まり。

 浜松城は出世城といわれているのだとか。
 それは、徳川家康に限らず、江戸時代、このお城の城主になったものが幕府の重役に出世した例が多いからだそう。
 そりぇ、徳川の浜松のお城に城主として入るってことがつまり出世が約束されているってことなんじゃないだろうか?


 そんな浜松、今となっては車の街です。
 広く車線をとった道路が街を縦横無尽に走っている。
 歩行者はそっちのけ。
 交差点はほとんどが車のもので、歩行者は地下通路を回される。
 二日酔いで重い体。階段の昇り降りが辛い。
 バリヤフリーもなければエスカレーターもない。当然エレベーターだって。
 高齢者の人はどうしているんだろう?

 浜松に居るのは、若いうちだけで、年をとったら江戸に出て行けってことか?
 
 
100920_062939_浜松城


 市役所の脇から浜松城に登城します。
 その市役所の駐車場には、朝のラジオ体操をする人達が結構集まっています。

 目と鼻の先にお城があるんだから、ラジオ体操はそこですればいいのに、市役所の駐車場。
 なぜ?
 お城への上り坂が辛いからか?それも含めて体操じゃないのだろうか?
 どこの城下町に行っても、朝の体操はお城でするもんだと思っていたから。
 浜松市民にとって、お城はあんまりシンボル的なものではないということなのかなぁ?


 徳川家康唯一の敗北とされる、三方ヶ原の戦いが浜松にいた時だからか?

 三方ヶ原の戦いに敗れて、逃げ戻った家康が、夜、城門を開け放って、策があるような無いようなふりをして逃げ切った伝説が残されているけれども、有名な伝説に対して、浜松城の門が再建されていないのが残念。

 岡崎城のあの立派な城門を見てしまっている分、なんだか残念で仕方が無い。
 門を再建するのなら、岡崎城よりも浜松城だろうと思うんだけれども。


 そう思うと、気のせいかランニングをしている若い人も少ないような気がする。
 浜松城はランニングのルートではないのか。
 もっとも、先にも触れたけれども、浜松はモータリゼーションのための街。その都度地下道を上り下りさせられたら、ランニングも楽しくないだろう。


 浜松城は本当にこじんまりと残されたお城跡です。
 浜松公園として整備されていて、公園自体はとても広いんだけれども、そのなかで城跡らしい部分って言うのはほんの一部。
 浜松公園は、日本庭園とか、芝生広場とか、歴史とはあんまり関係ないものが大部分を占めていますから。

 天守台下には、若き日の徳川家康の石像などもあり、まぁまぁ、らしい雰囲気はありますが。

100920_064138_浜松城


 天守台の石垣は野面積み。
 この石垣は、400年前のものだそう。
 ただ、この石垣に乗った鉄筋の復元天守が石垣いっぱいいっぱいに立っていないんです。
 これじゃ、忍者、登り放題じゃん。
 それとも、野面積みの石垣の上の建物って、こんな程度だったのかな?自慢の石垣、あんまり頑丈そうじゃないからなぁ。

 ある方角には石落しの仕組みなんかも復元しているくせして。 
 ある方角は明らかに建物引っ込み過ぎだろうみたいなものもあり。
 なんだかなぁ。

 これまでのこともあり、市民の浜松城に対する思いって言うのか、そういうものの薄さを感じて残念でなりません。

 もっとも、家康もここにいたのは20年程度。
 秀吉に言われるがまま、さっさと江戸に移ってしまったことへの恨みみたいなのがあるのかな?
 年をとった後の隠居先は駿府だし。やっぱり階段が・・・ねぇ。


100920_064403_浜松城


 浜松の家康は、姉川の合戦に従軍し、三方ヶ原で大敗し、長篠の戦いに勝利し、小牧長久手で秀吉と戦い。

 そう言えば、真冬のアルプスを越えて、佐々成政が富山から訪ねてきたのも浜松城だったはず。
 ささら越えで知られる伝説だけれども、浜松に向かうときは勢いだけれども、帰りは辛かっただろうなぁ。ささら越えよりも、ささら戻りの方が何倍もね・・・。




長篠 医王寺

 浜松城の朝散歩を終え、ホテルに戻って荷物をまとめて出発です。

 今日は長篠、設楽ヶ原の辺りを回ろうと思っている。
 そう、武田勝頼を、織田と徳川でこてんぱんにしてやった戦いの跡。

 織田信長により、戦国時代の鉄砲に寄る鉄砲の戦いが幕を開ける。
 そんな歴史の場所に向かって。


100920_100237_長篠_医王寺


 浜松からは、国道257号線を・・・。
 道は空いているんだけれども、山また山の山の中の道路。
 医王寺までは、浜松からは1時間以上。ワインディングは面白いけえれども、うーん、進んで走りたくはない道です。

 当然当時はこんな国道はなく、武田勝頼に囲まれた長篠城の援軍には、徳川家康は、岡崎からまわったそうで、この辺りの地理的状況は今と昔とではだいぶ違うみたいです。

 先日の二俣城といい、長篠城といい、徳川と武田の接点です。
 
 前回の武田の上洛(西上作戦というらしい)の時に、武田に取られた長篠城を、信玄の死亡でゴタゴタの中、家康が取り返す。

 そして、天正3年、1575年に武田勝頼は2万5千の兵を率いて、奥平信昌が500の手勢で守る長篠城を囲み、長篠の戦いが始まるのです。

 その長篠の戦いの時の武田勝頼の本陣だったのが医王寺です。

100920_100258_長篠_医王寺


 長篠城から目と鼻の先と言ってもいいような距離。
 多分1キロも離れていないのでは。
 あまりに近い。籠城側は濠有り石垣有りの城にあるけれども、攻め側は丸裸に近い。夜陰にまぎれて・・・考えそうだけれども。
 それほど近い。

 こんな近くに敵の本陣を作られても、硬く守った長篠城はなかなか落ちなかった。
 その途中に、鳥居強右衛門などの伝説が生まれたらしい。
 

100920_100525_長篠_医王寺


 室町時代に大洞山泉龍院の末寺として開創されたという医王寺。
 今となっては緑濃い静かな山寺でしか無い医王寺。
 武田勝頼はどんなつもりでここに本陣をおいたのだろう。

 長篠城がなかなか落とせないことにいらだっていたのか?まだ見ぬ京都の夢を見ていたのか?
 そうこうしているうちに、織田徳川の聯合軍が設楽ヶ原に到着し、軍議は華やかに。

100920_101441_長篠_医王寺

 
 正面対決を避けるように進言する、山県昌景や馬場信春などの諸将の意見を退け、連合軍との決戦を決めた勝頼。
 三方ヶ原で見た信玄の戦いが忘れられなかったのかな?


100920_100905_長篠_医王寺


 果たして、時は運命の設楽ヶ原へ、刻々と進むのでありました。
 



長篠 大通寺

 医王寺から、より長篠城に近い大通寺。
 ここは、山県昌景や馬場信春などが最前線とした場所。

100920_110533_長篠_大通寺


 織田徳川の連合軍との正面衝突を決した軍議の後、山県昌景や馬場信春らはここで別れの杯を酌み交わしたそうです。
 クロサワの影武者で印象的に描かれていた場面の話です。

100920_110828_長篠_大通寺

100920_110910_長篠_大通寺


 その井戸がまだ残っていて。
 今となっては、井戸というよりも、水たまりって感じなんだけれども。


100920_111718_長篠_大通寺


 最近立て替えたのだろうか、真新しい本堂があまりに不似合いで。

 観光客の姿も少なめです。
 



長篠城

 長篠城は、大通寺から、国道を挟んだ位の距離。
 実際は国道から一段下がった感じ。

 今こうやって、愛知県新庄市ってところに立っていて思うんだけれども、信玄の時、なんで天竜川沿いに武田軍は降りてきたんだろうってこと。
 どう見ても、こっちのほうが京へは近道だ。
 浜松の扱いがあるから微妙だけれども、ではなぜ勝頼は浜松を避けてこの道を選んだんだろう?
 なんだか不自然です。


100920_103811_長篠城跡


 長篠城は、豊川と宇連川が合流する断崖に建つお城。
 すでに今となっては、天守閣の陰も形もなく、ただ広い本丸が残るだけなんだけれども。

 たった500人でここを守る。
 周りには2万を越す武田軍。
 ビビるよなぁ。

100920_104324_長篠城跡


 そんな中で、鳥居強右衛門の伝説なども生まれるわけです。
 こんな伝説的なことでもないと、要害の地とはいえ、なかなか守りきれるものではないだろう。

 結果、勝頼は長篠城の押さえで、軍から3000の兵を割かなければならなくなり、数的優位の織田徳川の連合軍に当たるわけです。


100920_104422_長篠城跡


 長篠城はなかなか観光客が多いです。
 医王寺や大通寺とは大違い。
 多いって言うのは言いすぎだけれども、ポツポツと人がいるってわかるくらい人がいる。まぁまぁなのではないだろうか?

 資料館は有料だけれども、大してみるものがなかったなぁ。
 



設楽ヶ原古戦場


 設楽ヶ原は、長篠城から目と鼻の先です。

 設楽ヶ原なんていうから、三方ヶ原同様ただの原っぱなのかと思ったら、川が流れ、ポコポコと丘が盛り上がり、かなり起伏に飛んだところ。

 三方ヶ原のような広大な平地で、軍が正面衝突するものだろうかって疑問だったんだけれども、ここならもう、ここで待っていると向こうから来るっていうのが手に取るようにわかる。
 なるほど良く考えられています。

 

100920_113619_設楽が原歴史資料館


 そんな、設楽ヶ原の古戦場を一望に見渡せる丘の上に設楽ヶ原古戦場資料館が立っていました。
 織田徳川連合の伝説の鉄砲隊の再現よろしく、山ほどの火縄銃が飾られていて。

100920_114948_設楽が原歴史資料館


 展示の資料としては、火縄銃以外大したものはないんだけれども、屋上から見渡せる設楽ヶ原の全景には、両軍の将になった感じがして、なんだか熱く込み上げてくるものを感じます。

100920_114930_設楽が原歴史資料館

 
 しかし、織田徳川の鉄砲VS武田の騎馬隊っていう対決の構造になっている設楽ヶ原の戦いなんだけれども、ついさっきまで城攻めをしていた武田軍に、本当に騎馬隊なんて言うものが存在したのだろうか?
 城攻めに騎馬隊ほど役に立たないものはないと思うから・・・。

 でも、そこを否定したら、戦国最強を歌う武田軍団の強さの否定になるような気がするし。



100920_120200_設楽が原歴史資料館

100920_115719_設楽が原歴史資料館


 資料館の裏手を少し下がると、設楽ヶ原の戦死者を伴う塚があります。

 その名も信玄塚。

 武田勝頼にとっては、すでにこの時、死亡していたオヤジの名。
 もしかすると、この辺りが武田の強さと弱さの秘密なのかも知れませんね。


100920_120903_設楽が原歴史資料館


 クロサワの影武者、当然だけれども、良く出来た映画だったなぁ。




旅の終わりに 信玄の最後 野田城

 設楽ヶ原を去って、少し南下すると、野田城ああります。


100920_123835_野田城跡


 少し時間が前後しますが、昨日行った、三方ヶ原で徳川軍をこてんぱんにした武田信玄は、浜松城を無視して野田城を囲みます。

 伝説では、その時、笛の音に聞き入っていた信玄は何者かの放った鉄砲に倒れたとか。
 実際は、野田城を攻略後、吐血して倒れ、長篠城で療養したが(この時長篠城は武田のものだったのですね)、帰らぬものと・・・。


100920_124017_野田城跡
 

 徳川家康でも、止められなかった武田の侵略を止めたのは、野田城自体だったのかも。

 今は国道から入った山の中にひっそりとその姿を残すのみ。

 石碑ななければ、どこなのかすら分からないようなところです。

 
 さよならは別れの言葉じゃなくて、再び合うまでの遠い約束。
 信玄の夢、途中にて潰える。


 人生ってそんなモノなのかも知れないなぁ。
 武田信玄だって、上杉や北条や今川がいなければ・・・そんな都合がよく行かないのが人生なんだろうけれども。

 そういう困難を、克服できた人物だけが天下人になれる。天下人になるためには、そんな困難を克服しなければならない。

 徳川家康の偉大さ、つき、運を何となく感じる足跡をたどる旅でした。
 
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