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100919_055907_岡崎城

 家康の足跡散歩。
 二日目は、岡崎から、二俣川城を回って三方原を訪ねます。





朝散歩 岡崎城

 夕べは東岡崎の居酒屋で、そこそこ飲んでの就寝。
 それでも、朝早いのはいつものことで。
 岡崎の街散策から始まります。

 5時ですからね。
 街はまだまだ眠りの中。
 地方都市ですから、当たり前っちゃ当たり前ですが。

100919_053216_岡崎_朝散歩


 それでも、東岡崎の駅前から、乙川の河川を岡崎城に向かうと、散歩やランニングの人と結構すれちがいます。

 広大な河川敷では、夏には花火大会も行われるそう。
 よく整備されています。


100919_055049_岡崎城


 ふらふらと河川敷を歩いて岡崎城へ。
 岡崎城にとっては、乙川と矢作川は背後や側面を守る濠の役目もしていたはず。
 つまりお城の裏手からの登城になりました。

 岡崎城は、徳川家康の生誕の地。
 この旅も、本当はここから始めないといけなかったんだけれども、地理的関係で清洲城からになってしまって・・・。
 
 徳川家康、竹千代って言ったほうが、この時のままでしょうか。
 が、1542年(天文11年)生まれた頃の岡崎城は、土塁のみで石垣もなく、茅葺きで城というのもおこがましいような形態だったのだとか。
 
 竹千代が、織田信長や今川義元の元で人質に近い生活を送っていた頃は、今川家の支城として、城代がおかれていたそう。
 1560年に桶狭間で今川義元が織田信長に討たれると、松平元康(先の竹千代のちの家康ですね)が岡崎城を取り戻して、どさくさにまぎれて今川から独立。
 1570年に、浜松に本拠を移すまで、松平、後の徳川家の本拠地となるわけです。

 家康が浜松に本拠を移した後は息子の松平信康が城主になるんだけれども、信康は信長に謀反を疑われて切腹の憂き目に。
 信康の信の字は、信長の信だというのに。なんとも残酷な時代です。

 家康殿にとっては、辛い思いばかりのお城のような気がします。
 でも、彼の飛躍はここから始まったわけで、それだけは間違いですから。


100919_054924_岡崎城


 そんな岡崎城を搦め手から登城。
 岡崎城自体は、岡崎公園の中の一部っていう扱い。よって、天守の周りも木々に覆われた公園施設。静かで落ち着いていて、なかなか雰囲気はいいです。

100919_055226_岡崎城


 そこには、家康の産湯井戸などものこり、歴史を感じさせてくれます。
 まぁ、そこにあった井戸を、そう名付けているだけかも知れないけれども、でも、江戸時代には神と崇められた人物の生まれたところだからなぁ・・・。

100919_060942_岡崎城


 絡めてからの登城となったので、天守閣に登る前にやっぱり大手門に向かいたい。
 一度城内を通り過ぎ、大手門へと回ります。


100919_060145_岡崎城

100919_060304_岡崎城


 大手門は、国道一号線沿いに再建されあた城門。

 家康の生まれた城だけあって、見事に再建されています。
 って、だから、家康の頃の岡崎城は石垣もなく瓦の屋根すら無い状態だったそうだから、だいぶ後の時代のものの再建でしょう。
 岡崎城も江戸時代には東海地方で3番目に数えられるほどの規模だったので、これくらいの門があってもおかしくはないんだけれども。

 国道沿いに建つ、立派な門をくぐりなおす。
 さすがに国道一号は大動脈。車の往来は激しいけれども、公園を訪れる人は少ない。巨大な駐車場も今は閉鎖時間だし。
 朝の散歩やランニングは河川敷がメインストリートみたいで、国道沿いのほうが人通りが少ないほど。
 朝の顔と昼間の顔の違いが垣間見れます。


 徳川家康などの銅像が立つ公園内を、天守閣に向けて登城。
 緑多い場内。雰囲気は伝わります。

 上り詰めた天守閣。
 その横には、龍城神社が。
 
100919_061324_岡崎城


 岡崎城は龍城と呼ばれているそうで、そこの神社で龍城神社。
 本来は、東照宮の1つだとか。
 そりゃ、神の生まれたところですからね。
 言ってみれば聖地なわけで、そこで神社ということに。

 でも、ここって、岡崎公園内。
 公共施設に神社施設・・・そんな事ほじくり返すと・・・なかった事にしておこう。


100919_061540_岡崎城


 岡崎城の天守閣は、こじんまりとした物。
 鉄筋コンクリート3層5階で昭和34年(1959年)に再建なのだとか。
 昭和34年の再建にしては、城壁が美しい。掃除が行き届いているのか、塗りなおしたのか?こんな国道沿いで・・・ねぇ。
 朝早いため、天守閣の中には入れない。
 もっとも、鉄筋コンクリートの天守閣に入ったところで・・・ねぇ。
 それでも、浜松の街を見下ろすのは気分がイイか。

 天守閣と龍城神社は河川敷マラソンのコースみたい。
 たくさんの人がここまで登ってきて、神社に手を合わせて走り去っていきます。

 なんだかいいものですね。
 こういう景色。

 市民に愛されているっていうか。 
 徳川家康生誕の城ですから、市民にとっても誇りだろうし。
 



朝散歩 八丁蔵通り

 岡崎城の散策を終え、さて、そろそろホテルに戻ろうかなって思って、ふと見た観光案内看板。そして、観光用の方向指示。
 八丁蔵通りこちらの矢印。

 愛知といえば味噌煮込みうどん。
 味噌煮込みうどんといえば八丁味噌。
 八丁味噌といえば岡崎か・・・だったら行ってみなければ。

 八丁味噌って、岡崎城から八丁の場所で作られたから名前がついたのだとか。
 1丁は1町で、60間。1間は6尺で約1.818㍍。つまり一丁は109メートルちょいで、それを8倍すると・・・なんだか良い距離だなぁ。
 しかも、岡崎城に来るとき気がつかなかったってことは、ホテルと反対側。
 往復するとつまり2倍・・・途方にくれてきますけれども、歩き出した足は止まりません。

 何でも、八丁蔵通りを舞台に、NHKが朝のテレビドラマを撮っていたそう。
 岡崎城内にあった、竹下景子や三浦友和、寺島しのぶのブロンズの手形と説明で知った。
 純情きらり・・・そんなドラマがあったようななかったような?確かに聞いたことはある。
 それを確かめに歩き始めたってのも要因です。


100919_063700_岡崎_八丁味噌蔵通り

 
 岡崎城の竹千代橋から歩き出して、R248を超えて、名古屋鉄道と環状鉄道が交わる中岡崎の駅を超え・・・。
 中岡崎駅のロータリーの反対側の駅の敷地のトイレの隣に室井滋の手形があったのには少し笑った。

 お城から見て、中岡崎駅の向こう側を八帖町といって、これが八丁味噌の名前の由来なんだけれども、早速駅前には「まるや」っていう八丁味噌の工場が。
 味噌をつくるところを工場っていっていいのか疑問だけれども、大きな味噌樽が干してあるのを見ると、おお、味噌屋だよって感動します。


100919_064345_岡崎_八丁味噌蔵通り

100919_064608_岡崎_八丁味噌蔵通り


 八帖町で今も味噌を作っているのは、駅前のまるやさんと、R1に近いカクキューさんの2軒。
 その間の通りが八丁蔵通りというそう。

 味噌の工場が並ぶなんて、なかなか見る機会がないし。
 黒板の蔵造りの建物がなんともいい雰囲気です。

 そして、その、八丁蔵通りに、宮崎あおいのブロンズ手形が・・・。小さい、可愛い。
 あー、あったあった、そうか、あおいちゃんのドラマか。
 すげー、やっとつながった。純情きらり。
 あのドラマって岡崎の味噌屋の話だったんだ。
 家康の生誕地であおいがドラマ。なんだか良く出来た話のような気がするが。


100919_064731_岡崎_八丁味噌蔵通り


 宮崎あおいが歩いたと思うと、蔵通りも違って見えるから不思議。

 ただ、この雰囲気ある蔵の通りも、地元の人にとっては、駅への近道。
 駅へと向かう自転車がバンバン通るのが残念ではありました。
  



八丁味噌の郷見学

 一度ホテルまで歩いて戻って、荷物をまとめて車に乗せて、先程の八丁味噌のカクキューさんへ。
 何でも、申請すると味噌蔵の見学ができるのだとか。
 純情きらりの撮影が行われた味噌蔵。
 徳川家康とはあんまり関係ないかも知れないけれども、あおいつながりということで・・・orz

100919_092404_岡崎_八丁味噌の郷


 R1から入ったところにあるカクキューの味噌蔵。
 店前の駐車場に車を止めて。
 朝そこそこ速い時間なのに、半分くらい埋まっている駐車場。
 なかなかの人気みたいです。

 なんともヨーロッパチックな本社事務所は国の有形文化財。
 戦前の列強に追い越せの雰囲気。
 味噌屋までもが・・・そんな時代背景だったのかな?


 売店の中で味噌蔵見学の申請をして、中庭みたいなところで時間まで待つ。
 朝一番の工場見学は9:30分から始まるそう。
 この時間で結構な人が見学開始を待っている。


100919_093221_岡崎_八丁味噌の郷


 時間少し前に説明の係の女性が出てきてみんなをまとめ、注意事項などを簡単に説明してくれて、見学の始まりです。

 説明の女性ななかなか可愛くって。
 それだけじゃなく、説明を聞いている外国人にちゃんと英語で対応していたのには驚いた。
 こんな岡崎の地で。
 民間の味噌屋の説明だっていうのに。
 もしかすると、地元では、八丁味噌は超一流企業なのかも。

100919_093520_岡崎_八丁味噌の郷


 古く巨大な味噌蔵、味噌桶。
 見るもの、聞くもの、何もかもが新鮮だ。

100919_095452_岡崎_八丁味噌の郷


 長野に住む友人の自宅の物置で、ゴミバケツにするポリバケツで味噌を作っていたのを見たことがあるけれども、そんなモノとは比べものにならない。

 壁にはられた純情きらりのポスター。
 撮影風景の写真。
 笑顔の宮崎あおい。若い。可愛い。

 見学の1時間があっという間だった。


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 八丁味噌なんて、関東に住んでいるとなかなか口にする機会がない。
 これからも多分、期会は少ないだろうけれども、見学の最後に口にしたサービスの味噌汁は旨かった。はっきりと記憶に染み付いた。




三河 一向一揆の本證寺

 岡崎からほど近い、愛知県安城市に本證寺はあります。
 三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には、三河一向一揆の拠点となった、真宗大谷派の寺院です。


100919_104824_安城_本證寺


 戦国時代、三河一向一揆の拠点となったとかきましたが、当然、戦国時代に三河の領主といえば松平家。そう、まさにのちの徳川家康殿です。

 本能寺の変後の伊賀越、武田信玄三方原とならんで、徳川家康三大危機に数えられる三河一向一揆。

 宗教は、鉄壁の家臣団の分裂を招く。
 徳川家康も、戦い自体は有利に進んだと言われてはいるけれども、結構ビビったはずですね。

 この思いが、やがて江戸幕府が本願寺の分裂に手を貸すことになるみたいなんだけれども、今はまだまだあとの話です。


100919_104850_安城_本證寺


 寺院は田んぼの中に静かに佇んでいました。
 寺をぐるりと狭いけれども濠が取り囲んでいて、蓮の花が見事に咲いていた。
 本證寺は場合によっては、本證寺城などと紹介されることもあるそう。
 隅櫓などもあり、なるほど分からなくもないです。


100919_105345_安城_本證寺


 広い境内は、その昔、約33,000m²もあったと言われる寺領の名残。

 巨大な本堂は見事な瓦屋根。

 ただ、参拝の人はだれもいない。


100919_105106_安城_本證寺


 一揆の名残は微塵も感じられませんでした。 

 


徳川信康の墓 清瀧寺

 岡崎周辺から浜松へ移動。
 家康の足跡の舞台と時代は、岡崎時代から少し進みます。

 本證寺から岡崎まで戻って高速道路へ。
 混雑のない高速道路は、1時間ほどで三ヶ日ICへ。

 三ヶ日なんて初めて降りるICです。
 ガキの頃、広島のヒバゴンと並んで話題を集めた三ヶ日原人のふる里?

 そんな原人の噂が出るのもわかるような人里はなれたというか、山深い地域。
 そんな山村の幹線道路をひた走ります。

 浜松市に入って、しばらく進むと天竜川が。
 なんだか立派な橋を渡るとそこが二俣町という地域。
 ここも、合併して浜松市になっているけれども、以前は二俣町っていう立派な行政区分だったんだろうなぁって想像がつきます。

 そして、この山深い、天竜川が大きく蛇行する、岬の出っ張りみたいなところに二俣城があります。

 徳川(松平)と武田が陣を奪い合ったところ。
 山梨や長野から、京都を目指そうとすると、リニアモーターカーの候補ルートでもおなじみの、木曾谷ルートか伊那谷ルートかってことになるわけで、伊那谷を天竜川沿いに下ってくると、ちょうどここが摩擦地点。
 最後の山間部とでも言ったところ。

 武田にしてみれば、ここを突破すれば浜松の平野地帯に突入できる。
 徳川にしてみれば、ここを抜かれると後はジリ貧になってしまう。

 両軍にとって、伊那谷に街道ルートが通っている以上、とって置かなければならない地域だったはずです。
 
100919_133144_浜松_清龍寺


 また、ここ、二俣町は本田宗一郎の生まれ故郷。
 本田の資料館などもあり、町おこしにやっきみたいです。

100919_133540_浜松_清龍寺

100919_133721_浜松_清龍寺


 そんな二俣城の脇に清瀧寺という小さなお寺が。

 ここは、徳川家康の長男で、家康が浜松に移った後の岡崎城主、岡崎三郎信康(徳川信康)の墓所があるところ。

 家康が駿府でまだ人質生活を送っていた頃の子供。
 その後、桶狭間で今川義元がああいう目にあって、今川家とはたもとを分かち、清洲で信長と同盟を結ぶことに。
 同盟の証として、徳川信康は信長の娘・徳姫と結婚するんだけれども、母親(つまり、家康の奥さん)・築山殿は今川義元が姪。
 ここにややこしいことが起こって、徳姫の信長への告げ口により謀反の疑いをかけられて、切腹の憂き目に。

 同盟関係とはいえ、長男を切腹させる家康という人物。
 今川との関係をなかった事にしたかったのか?この時、一緒に築山殿も死罪ということになっているので、十分考えられる。
 妻子なんて言っても、所詮はそんな程度の時代だったんだろうなぁ。


 そして、信康の死後、家康は廟所として清瀧寺を建立したのだとか。
 切腹を言い渡しておいて、廟所を建てる。なんだかつじつまが・・・。

 信康は、天正7年9月15日(1579年10月5日)の死去。信長の死去は、天正10年6月2日(1582年6月21日)。
 家康の意思がどうだったかはわかりませんが、惜しいですね。


100919_133815_浜松_清龍寺


 そんな伝承の清瀧寺。
 長男とはいえ、謀反人の廟所。
 決して大きくもなく、山の中にひっそりと。
 それでも、時々訪れる人がいる。なんて物好きな・・・。

100919_133835_浜松_清龍寺


 ただ、きちんと清潔に保たれているのはさすがです。
 地元の観光名所だからか?

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 山の中に、隠れるように、ひっそりと。
 歴史と時代。人権。
 なんだか虚しいですね。

 朱塗りの赤いもんが妙に眩しいです。




二俣城

 清瀧寺からは、尾根違い。
 車は本田の資料館前に留めて、ここからは歩いて二俣城へ。

 一度下がって、また登って。
 鋭く切れこんだ谷を登った先が住宅地だったのには驚いた。
 こんなところに人が住んでいるんだ。
 結構新しめの造成みたい。人ってすげーな。モータリゼーションのなせる技でしょう。

 そんな造成の人家を抜けると、また山の中みたいな雰囲気になって。
 山の中になったなぁっ?と思った辺りが二俣城です。
 ここに、小さいながらも車を停めるスペースが有りました。
 足腰の弱い方は、こちらに。ぜひ。


100919_140135_浜松_二俣城


 説明板などもちゃんと整備されていてありがたいんだけれども、センサーかな?人が通るたびにテープの説明が流れるのが、ありがた迷惑。
 雰囲気ってものがあるからなぁ。

 そんな二俣城。
 そもそもは、今川氏が斯波氏と遠州をめぐって争った際に築城したのが始まりだそう。
 今川が滅んだ後、紆余曲折の末、徳川のものとなっていたが、信玄上洛の際に武田勝頼によってケチらされる。

 後は三方原へ・・・・。


 ここを抜かれたら、浜松は目と鼻の先。
 しかも、平野が続くのみ。
 徳川にとっては大事な城だったはず。

 徳川は、二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣である中根正照に城代を交代させたていたそうだから、重要性が見て取れますね。

 家康も浜松に居を移して、こんな目と鼻の先みたいなところで武田と接しているって、どうするつもりだったんだろう?
 武田は、戦国最大と言われる軍隊。勝つ気でいたのか、降伏するつもりだったのか?負け=死ですから、気が知れない。

 でも、そういう修羅場をくぐり抜けて、適切な判断を繰り返したからこそ、三河の一豪族が天下人まで上り詰めたんだろうが。



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 そんな、二俣城。山の中にひっそりと。

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 林を抜けると本丸が。

100919_140853_浜松_二俣城


 結構広い本丸で、天守台まで残っているんです。

 こんな山城で天守台まで築いていたのか。
 結構本格的だったんだ。


 眼下をたゆたゆと流れる天竜川がのどかな風景。

 その昔、ここを取り合い戦があったなんて嘘のよう。

 
 歴史めぐりなのか、何人もを先導した団体が時間を置いて訪れる。

 風光明媚だから、そういう趣旨の団体も多いのだろう。


 本丸の脇には神社が。
 これは、日清、日露の戦死者をともらうために建てられた物。
 残念、徳川や歴史とは関係の薄いものみたいです。


 二俣城はなかなかの山城。
 車を停めたところまで戻るのが大変。

 これならここまで乗ってくるんだった。

 くれぐれもお気をつけございませ。 
 


三方ヶ原古戦場跡は墓地の脇

 話は、徳川の時代に戻ります。

 信玄上洛の際、武田勝頼によって落とされた二俣城。
 徳川家康(このころはまだ、松平元康ですが)の浜松城は目の鼻の先。
 しかし、信玄は浜松を無視するように浜松方面へと兵を進める。

 ここに家康も黙ってはいられず、三方ヶ原大地で、正面衝突!


 二俣城から、三方ヶ原古戦場跡へは、10Km程度だろうか?

 実際は、二俣城から南は広大な三方ヶ原大地が広がっているわけで、もうどこからどこまでがどうなんだなんて、実際は分からなかったはずです。

 車で走ってみても真っ平らな風景。
 低層住宅が延々並ぶ。浜松のベットタウンなのかな?

 武田軍30000、徳川軍は、織田の加勢を入れて11000。
 兵数の違い以上に、兵力にも開きがあったはず。
 結果は、家康軍はコテンパン。

 しかし、分からないのは、これだけの人数の軍隊は、この広い三方ヶ原で正面からぶつかるのだろうかということ。
 川があるとか、谷があるとかいうならそこが摩擦点になるのもわかるけれども、この広い平地で。ねぇ。
 実際は、大群によるバックの取り合いみたいな形になる気がするんだけれども。

 
 負けた家康は、一目散に浜松城に逃げ帰り・・・って、浜松城のくだりは明日に。
 

100919_151825_浜松_三方ヶ原古戦場跡


 三方ヶ原の古戦場跡の碑ってのが存在しているんだけれども、場所が墓地の駐車場の端のほうにぽつねんと。
 いや、石碑自体は立派なもので、現徳川家の当主、何とかって人の直筆らしいんだけれども、しかし、墓地の端とは・・・。

 おかげで車は止めやすくってラッキーっちゃ、ラッキーですが。


100919_151941_浜松_三方ヶ原古戦場跡



 家康三大危機の三方ヶ原の戦いの跡が、あまりに、なんというか、雰囲気が出ないというか、気持ちが乗らないので、近所の三方ヶ原神社によってみた。

100919_154624_浜松_三方ヶ原神社


 明治元年、浜松城廃城の時に城内に立てた東照宮を、大正十二年にこの地に移転した物。
 戦後現在の社名になったそう。

100919_153922_浜松_三方ヶ原神社

100919_154427_浜松_三方ヶ原神社


 コンクリート作りの社ってのもすごい。石の神社です。
 まぁ、三方ヶ原の古戦場跡の辺りは、墓地と住宅地であんまり雰囲気が出ないので、この神社の周りで一悶着あったことにしてくれたほうが、気分が出るのにって、チョット残念。
 観光的にもそのようがいいと思うんだけれども。
 数万人規模のぶつかり合い。それくらいの融通は有りだと思うが。



浜松

 今日の宿泊は浜松です。
 浜松市内の発展ぶりに驚き。
 借りにも政令指定都市ですからね。

 三方ヶ原の古戦場跡から、浜松までは10Kmくらいかな?
 戦国時代の馬や徒歩なら2時間くらいでしょうか?
 でも、道はアスファルトってわけにも行かなかったろうからなぁ?

 必死の形相で逃げ帰る徳川家康。追う山県昌景・・・。

 そんな浜松なんだけれども、今日はなんだかパレードが行われていた。

100919_171459_浜松の街


 ブラジル人が多い街。
 みんな自動車関係で働く人達か?
 浜松はすっかりブラジリアンの街になっているみたいだ。

100919_171038_浜松の街

100919_170644_浜松の街


 まぁ、陽気な人達で、街の雰囲気も盛り上がるのなら越したことはないか。


 餃子で有名な浜松なんだけれども、宇都宮のように、餃子屋が乱立しているってわけでもないみたい。
 実際、数店の有名店は大行列だったけれども、他に餃子屋!ですって銘打つ店って少なかったから。

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 まぁ、そのへんのラーメン屋で餃子を頂いた後、飲みってことにしたんだけれども、浜松の街、観光客には、なんとも掴みどころがありません。

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