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100918_110546_清州城

 江戸開幕の祖、徳川家康。
 まぁ、話にはよく聞く歴史上の人物ではあるんだけれども、本当のところはあまり良く知らないんです。
 先日、久しぶりに日光東照宮に行って、あぁ、徳川家康ってどんな奴なんだろうって思ったのが始まりかな?
 幸いなことに、徳川家康も調べていると、結構活躍の場所って限られている。愛知と静岡と東京が基本的行動範囲といってしまっていいのかな?
 そりゃ、京都や大阪ってのもあるだろうけれども。
 そんなわけで、ちょっと、家康殿の足跡でも追ってみようかというのが、今回の散歩の目的です。

 初日の足跡は、清洲から桶狭間を回って岡崎へ。
 彼にとっては幼少期から青年期にかけての辛い時期の話です。



 敬老の日を利用しての3連休。
 渋滞は予想される高速道路での移動。

 早朝4時過ぎに出発した横浜、神奈川、静岡と割と順調に流れてきたんだけれども、岡崎の辺りで渋滞にはまり、脱出するのに1時間取られる。

 うーん、こんな田舎で・・・とは思うんだけれども、どうもこの辺りの渋滞は定番らしい。
 我慢に我慢を重ねての名古屋入り。

 最初の訪問地は清洲城からです。





信長殿の清洲城

100918_100822_清州城


 横浜から高速道路を5時間半以上ひた走り、たどり着いた清洲東IC。
 そこから、そこそこ栄えているっぽい、清洲の街をほんの数分走ると、五条川の橋の向こうに奇抜な天守閣の清洲城が見えてきます。

 1405年に、尾張・遠州・越前の守護、斯波義重によって築かれた清洲城。
 以後、紆余曲折の末、織田信長が那古野城から入城し、本拠地として居城した城です。

 徳川家康的に言えば、幼少期人質になって暮らした城であり、やがては、織田信長との間に同盟を結んだ城。
 織田信長が本能寺の乱で去ってからは、織田家の家督を決める清洲会議が行われた場所。

 秀吉時代には、福島正則が入城し、関ヶ原の戦いの折には、東軍の拠点として利用された城。

 1906年、徳川家康により、名古屋城への遷府が指令され、歴史の幕をおろしますが、短くはあるけれども、濃密な歴史の主役だったことは間違いないお城です。


100918_100808_清州城


 そんな清洲城。
 天守閣の裏側になるのかな?小さいですが無料の駐車場がありました。
 一番近いところには止めそこねましたが、それでも歩ける範囲の駐車場に停めることが出来ました。

 清洲城の天守閣は、平成元年に旧・清洲町の町制100周年を記念して、清洲城跡に隣接する現在の場所に建設された模造天守。一応、外観は実在当時を想像して作ったそうです。
 想像してってところが、チョット怪しげですけれども。

 当時の天守閣は、小天守は名古屋城築上の際移築されて、名古屋城西北隅櫓として利用されたとか。

100918_100331_清州城


 なんとなく天守閣の雰囲気が普段見る、よそのそれとは趣が違うような気がする。
 展望部分の赤い手すりが度派手な印象で、如何にも信長殿って感じ。

 石垣は綺麗に積まれているけれども、これはチョット後の時代様式ですよね。


 天守閣を外から堪能した後は内部へ。
 入場は一人300円。

 驚くほど観光客の少ない城。
 人気はすっかり名古屋城に持って行かれて、本当に今ではひっそりと・・・。

 内部の展示は、いかにもって感じ。
 信長公の威光をこれでもかって展示してある。
 結局そんな信長も、斎藤道三の岐阜を落としたら、さっさとそっちにいちゃったわけで、尾張の重要性って・・・なんとも複雑な。

 天守閣からは城下が一望。
 高層建築のない清須の街。言ってみれば当時のままかな?家康もここからの眺めを楽しんだのか?
 人質の身、天守閣になんて近づけなかったのか?

100918_102350_清州城


 天守閣から、はるかに名古屋の街並みが見渡せるんだけれども、あぁ、今となっては、尾張は徳川殿の物。
 どこまでも低層建築が続く清須の街と、高層ビルが並ぶ名古屋の風景。
 街の発展の度合いの違いを実感させられる。
 
 時代には、あがなえませんからねぇ。



清洲公園

 お城から、城門向こうの赤い大手橋で五条川を渡ると、清洲公園です。
 
100918_110723_清州城

100918_105907_清州城



 正確に言うと、JRに分断されて、線路のお城側が清洲古城跡、線路の向こう側が清洲公園。
 本来お城は、川に対してこちら側にあったそうです。


 土産物屋の裏に、巨大な駐車場が・・・。
 本当はここに車を停めるべきなのか。

 こちら側にお城があったと行っても、なんとなく、縄張りを感じはするけれども、今ではすっかり市民の公園です。

 五条川が流れているとはいえ、戦国の時代、こんな平らなところにお城を作るかなぁ。
 高低差がないから、散策には便利だけれども。
 

100918_104732_清州公園



 しかし、観光客の姿は少ないです。いや、ほとんどいないと言って良い。

 散歩とか、公園で遊んでいる市民はそこそこ居るんだけれども。

 清洲城では、観光の目玉になりづらいか。

 信長公の威光もすっかり・・・です。

100918_104822_清州公園




戦勝祈願の熱田神宮

100918_120331_熱田神宮


 時は、永祿3年春の頃。
 駿河、遠州そして三河も傘下に治める今川義元が、甲斐の武田、相模の北条と同盟を結び、ついに上洛を決め、街道を西へと進みます。


100918_121633_熱田神宮


 尾張、三河の間で小競り合いを繰り返していた織田方としては、今更今川に付くわけにも行かない。
 悩んだすえに織田家当主信長は、正面対決を決意!

 この時、鳴海城、大高城、沓掛城の東尾張の一帯は今川の手に落ちていて、織田家では清洲のお城での籠城戦が主流派であったそう。
 あの平城みたいなところで、素人目にも籠城戦などがあり得ようか。


100918_122003_熱田神宮


 永祿3年(1560)5月17日、ついに今川義元が三河境の沓掛城に入城。
 今では、跡しか残らない沓掛城ですが、この時まさか入場料は取らなかったはず。
 

 前日に今川軍接近の報告を聞いても動じなかった信長は、早朝飛び起き、人生50年、敦盛を待った後、僅かな供回りと連れて早朝8時熱田神宮に到着、軍勢を整えた後、熱田神宮にて戦勝祈願を行ったとか。


100918_120916_熱田神宮


 果たして、清洲城から、熱田神宮までは、車であっという間だった。
 距離にしても、10Kmほど。

 そりゃ、今ならたいしたことないけれども、当時は馬と徒歩。

 えらい奴は馬でいいけれども、合戦前に、徒歩でこんな所まで進まされたら、それだけで疲れてしまいそうだ。
 まして、朝8時って・・・この距離、清洲からだって2,3時間かかりどうだし。
 鎧衣装を着てってことになると、信長殿、何時起きですか?敦盛も舞ってるんだよね。もしかして、ドキドキして寝れなかったんじゃないだろうか?それが人ってもんだよね。
 時として、こうやって検証してみると、伝説の矛盾に気がつくものです。


100918_121428_熱田神宮

100918_122158_熱田神宮


 熱田神宮には、織田信長が勝利を感謝して奉納したと言われる信長塀が残されています。
 でも、今ある場所を想像するに、この場所に塀が必要だったのだろうか?
 みたいなところに収められているんです。

 うーん、この塀ももしかすると・・・所詮誰も実証することができなに話ですからねぇ。

100918_122619_熱田神宮





桶狭間今川義元本陣跡

 熱田神宮からやはり10Kmくらい。

100918_132929_高徳院_今川義元本陣跡


 車ではあっという間に着く距離に、高徳院というお寺があり、その境内に今川義元の本陣跡の碑が立っています。

100918_133042_高徳院_今川義元本陣跡


 お寺の境内は静かで、当時をしのくことは全然出来ないんだけれども、桶狭間っていう土地は、中京競馬場がすぐそこなんですね。
 確かに勝負事にはピッタリの気がするけれども、毎度の番狂わせでは、競馬も成り立たないような気がする。


100918_133158_高徳院_今川義元本陣跡


 今川義元、我が世の春もこれまで。
 最後の最後、調子の絶頂にあったはず。
 (伝説では)

 まさかこの後の展開など、このときは夢にも思わなかったはずです。

100918_133208_高徳院_今川義元本陣跡



 

桶狭間古戦場伝説地 今川義元の墓

 我が世の春を楽しんでいる今川義元を、織田信長が急襲します。

 ちょうど昼食をとっている時だといいますから、まさに寝耳に水であったことでしょう。
 ちょうどその時、天候が急変して夕立となったそう。(昼飯時に夕立ですか)
 
100918_134648_高徳院_今川義元本陣跡


 狼狽する今川勢目がけて、織田信長、決死の突入!

 結局、2時間という、急襲したにしては意外に長い時間をかけ、今川義元の首を上げることに成功!
 
 この後、織田信長は、時代の表舞台に一躍・・・。


100918_140449_桶狭間古戦場伝説地


 てな話の舞台がこの辺り。

 もっと、桶狭間なんていうから、どっかの谷間なのかと思ったら、思いの外ひらけたところ。
 崖の上から織田信長が急襲するイメージがあったんだけれども、どうもそうではないみたい。
 これも、現地に来てみないと分からない話。

 って、こんなところで、遠くから斬り込んでくる織田信長が気づかなかったって・・・実際信長は、競馬場付近に集合したのだとか。まっ平らじゃん。
 ちょっと、義元殿気を抜き過ぎなのでは。


100918_141037_桶狭間古戦場伝説地


 休日でも、観光地から外れた桶狭間古戦場跡。
 観光の人はまばらです。

 おかげで、人のいい、ボランティア解説員の人が、どうでも良い解説までしてくれるから、思わず時間が取られてしまった。
 ありがたいんだけれども、チョット迷惑。
 まぁ、それも旅の楽しみですが。

100918_140920_桶狭間古戦場伝説地

 



のどかな桶狭間神明社

 先程の桶狭間古戦場伝説地が豊明市の敷地。

 そして、桶狭間神明社は名古屋市の敷地。

 この辺り一帯が、桶狭間というところで、まぁ1万を越す今川軍ということなので、かなり広い場所に点在していたはず。
 そのなかで、義元の本陣を守っていたのが6000人ほどだというので、それだけでも、広範囲に布陣していたことでしょう。

 つまり、どこからどこまでが桶狭間の古戦場だと言われても、正直良くわかっていないみたいなのです。その上、行政区分が別れちゃっているから・・・。
 義元が実際討ち取られた場所も、どさくさってこともあって、不明な点が多く。本当に討ち取ったのかまで、疑問に感じだされても、それを説き伏せる確たる証拠も曖昧みたい。


100918_143418_桶狭間公園


 そんな場所に立つ、桶狭間神明社は森の中の静かな社。

 ものすごい広い敷地に、舞台のようなものが設えられていて。

 近所の人だろうか、おっちゃんが、新聞見ながら昼寝してました。

 今川義元の運命を奪い、織田信長飛躍の土地も、結局、今となっては、のどかなおっちゃんの休憩所です。 



松平の菩提寺 大樹寺

 で、で、で、今川義元が桶狭間で討たれたときに、今回の旅の主役、徳川家康殿は何をしていたかというと、すぐ目と鼻の先にある大高城というところで、兵量を運んでいたそうです。
(もっとも、このころはまだ徳川家康ではなく松平次郎三郎元信なのですが。)

 桶狭間を訪れた後、大高城まで行ってみたんだけれども、あまりに街の中にある小高いただの丘で、車を停めることも出来ずに訪れるのは諦めた次第。
 (何周も周りをぐるぐる回ってみたけれども、時間貸しのパーキングすら見当たらなかった。)

 どなたも、訪れるときには、公共交通機関を利用することをおすすめします。
 って、そんなところ、なかなか行かないか。


 今川義元の首をとった織田信長ですが、敗軍を追う体力がなかったということになっていて、大将を失った今川軍は駿河の地へと引き上げていきます。

 どんな気分だったでしょうねぇ。
 敗軍の兵たち。

 何しろ、絶対君主が討たれちゃったんですから。
 その後の今川家の衰退は歴史上明らかで、結末は、全員がなんとなく想像できる感じだったのでは・・・。
 まさに、尾張が終わりの地になってしまったわけですね。

 当然、大高城に兵糧を運んでいた徳川軍も尾張の地から引き上げるのですが、平次郎三郎元信にとっては、そもそも三河が故郷。
 引き上げる先は、駿河ではなく三河になるわけです。

 で、本領の岡崎後に戻ってくるのですが、岡崎城には、今川の城代が入っていて、残念ながら入城することはできない。
 ということで、一旦、松平の軍が入ったのが、菩提寺の大樹寺ということになるのだそうです。

 大樹寺まで逃げ帰った松平次郎三郎元信は、先祖の墓の前で自害しようとしたそう。住職に咎められて命を永らえたのだとか。
 もしこの時に・・・そんなことは彼の人生、時折訪れる危機の1つでしか無いのですが。


100918_160330_岡崎_大樹寺


 松平氏の菩提寺である大樹寺。
 巨大な山門に驚きです。
 松平の菩提寺って言ったって、三河の頃の松平氏なんて、豪族に毛の生えた様な物だったはず。
 こんな巨大なお寺は、後になって整備されたものだろうなぁ。
 
100918_160319_岡崎_大樹寺



 何がすごいって、本堂から、山門をとして、小学校の向こうに、一直線に岡崎城が眺められるんです。
 松平家との深い関わりを感じることが出来ます。

100918_160502_岡崎_大樹寺


 岡崎も、ビルなどがたち、お城の天守もかなり小さく見えますが、当時はどうだったんだろう?
 岡崎の開発が進むとそのうち見えなくなっちゃうのだろうか?
 

100918_160541_岡崎_大樹寺


 山門が立派なら、本堂も凄い。
 屋根瓦の雰囲気がものすごくいい。変わら好きにはたまらない感じ。

 大樹寺には歴代徳川将軍の位牌が安置されているんだけれども、その位牌が、将軍臨終時の身長と同じだそう。
 ちなみに、徳川家康は159センチ。今の時代となっては、ただの小さいおっさんですね。
 15代将軍慶喜の位牌は安置されていません。まぁ、いろいろと政治的な理由だそうで。


100918_161524_岡崎_大樹寺

100918_160920_岡崎_大樹寺


 本堂の裏には、松平8代の墓が。
 これは、1615年に徳川家康が建立したものだそう。
 桶狭間から逃げ帰って、自害しようとしたのとはだいぶ趣が異なるはずです。

100918_161029_岡崎_大樹寺

100918_161239_岡崎_大樹寺


 松平家の墓の他にも、郡山藩柳沢家7代柳沢 保申の石碑も。
 墓なのか、なんなのかはわかりませんが、明治維新時の大和郡山藩藩主。
 柳沢って・・・そう、赤穂事件時の老中の子孫ですね。
 明治時代の久能山東照宮の宮司も務めたそうだから、何か深い関係があるのかも?

100918_161405_岡崎_大樹寺


 夕刻迫る時刻、境内に人気は無し。
 人に尋ねることも出来ずに、疑問だけが残りました。

100918_162126_岡崎_大樹寺


 しかし、流石は松平の寺だけある。

 よく整備され、落ち着いた雰囲気。
 近所から愛されるお寺であろうとは思うけれども、境内で遊ぶ子一人いないのが残念。

 

岡崎の夜

 本日の宿泊は、東岡崎の国道沿いのホテル。

100918_174624_岡崎


 今ひとつ、どこが栄えているか分かりにくい岡崎の街。

 岡崎城の外堀の役割も果たしていたであろう乙川を超えて駅前へ。

100918_180237_岡崎_居酒屋たぬき


 今日の夕食は、東岡崎駅前のたぬきという居酒屋で・・・。

 なんとも、家康の足跡を尋ねる最初の夜にピッタリでした。

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